市川市 新井の町をご紹介

かつて何度となく、大津波や地震などの災害にみまわれたこの地域。
新井寺第四世慈潭和尚は、村民を悪疫や水害から救うため、自らの命を
絶ち守ったとの伝えもある。


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御経塚(おきょうづか)

この御経塚は新井寺の四世慈潭和尚が、村民を悪疫や水害から救うため、蛤の殻に経文を書き写して塚を造り、見ら火定(念願達成のため火中に身を投じて死ぬこと)しと所と伝えている。
この地域は毎年のように津波や水害の災害を受けていたが、先人たちはこのような苦難を克服して、地域の開発に当ってきた。
このことは「新井」の地名が示す様に、飲料水の必要から能山和尚が真水の井戸を掘り出した伝承や、その徳をたたえた村人たちによって新井寺が作られた話やさらに慈潭和尚の身を捨てて村民を救おうとした事跡等として語り伝えられてきた。しかし、昭和48年に完了した区画整理事業は、地域の様相を一変させた。御経塚の由来を知る人の少なくなった今日、この事跡を先人の苦労をしのぶ縁として、後世に伝えていきたい。

平成15年10月 市川市教育委員会
御経塚(おきょうづか)

秋葉山 新井寺(しんせいじ)

永平寺を本山とする曹洞宗。本尊は釈迦如来。
元和2年(1616)の建立だが創立者は不明。
大正6年の大津波で流出し古い物は何も残っていない。
延宝8年(1680)8月の大暴風雨でも大津波に襲われ行徳領内で百余命が流され、また、元禄16年(1703)11月22・23日には地震と津波で防波堤が壊れ多数の死者を出した。
新井寺四世慈潭和尚は元禄10年(1697)に塔を作り貝に法華経を書いて津波の災害をまぬがれるように祈祷した。そこが御経塚である。
参考:「観音札所のあるまち 行徳・浦安」 文:中津攸子文(中山書房仏書林)
秋葉山 新井寺(しんせいじ)

宝珠山 延命寺(えんめいじ)

小岩の善養寺の末寺で真誉法師が慶長元年(1596)に創建。
もとは現在地より300m南にあったが、大正6年の津波で現在地に流された。
寺子屋としてはこのあたりで一番古く規模も大きかった。
南行徳小学校の誕生を明治6年の学制の発布でと土地の人は言わずに寺子屋の人数が多すぎて本堂に入りきらないから小学校ができたと言う。
宝珠山 延命寺(えんめいじ)

熊野神社

祭神 熊野夫須美(ふすみ)大神(伊弉冊尊(イザナミノミコト)
創建 元和年中(1615年ごろ)
祭日 10月15日
境内攝社 素五社稲荷
雑記
本社は西向シテ人家に沿ヘリ、年々一月十五日ニハ五穀等ヲ供ヘ以テ例トセリ、或ハ豊熟ノ年ハ神楽ヲ奉ズル事アリ
本社は素五社稲荷ト稱セシガ寛永年中(1620〜30年)熊野神社と改稱シ文政五年(1822年)拝殿ヲ再建セシト云フ
昭和五十七年(1982年)社屋ノ老朽著シク氏子有志ニヨリ再建サレ現在に到ル
(境内表示板)

境内には、日露戦争記念碑が建てられている。そこには元帥侯爵 大山巌書と書かれている。
裏には、出征軍士の名が刻まれている。
熊野神社
熊野神社 日露戦争記念碑
南行徳に伝わる民話 「ねね塚」今井の渡し

武士と腰元が駆け落ちした話。
その当時今井の渡しは、「今後ここを渡る時は通行手形を所持すること。これを持たぬものは、ここを渡ることはできない。これを破った者は百叩きか首打ちとする」というお触れがでていた。
そこへ何とかここまで逃げてきた武士の久三郎と腰元のイネ。地元の女が二人の話を聞き「ここで待っていてください」と欠真間村と鎌田村に住む二人の船頭を連れてきてくれた。
船頭は「任せてください」と、いざ船を出そうとしたところ捕まってしまった。
正保元年(1644)5人は殺され、女と船頭は家族の手で手厚く葬られたが二人は渡し場の南にある刑場のすみに埋められたままだった。
それをあわれに思った延命寺和尚が埋められた場所に石地蔵を立て、ねね塚と呼ばれ、首切り地蔵と呼ぶようになった。これは首と胴を別々に作ったため、何度首をのせても落ちることからつけられた。
※詳しくは本をお読みください。

「市川のむかし話」(市川民話の会)より抜粋 
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